今回は映画や漫画でも大活躍の「陰陽師」について、お話をしていきます。
陰陽師と言えば、安倍晴明が有名ですよね。
ちなみに、読み方は「あべのせいめい」です。
彼は平安時代、その陰陽術によって、都を魔の手から守っていたと言われています。
そのことから、今でも安倍晴明に魅力を感じる人も少なくありません。
そしてこの陰陽師ですが、フィギュアスケートの大スター、羽生結弦選手が平昌オリンピックにて、陰陽師をテーマにした「SEIMEI」という演目を披露したことで、世界的にも有名になりました。
そこで今回は、以下のことについてご説明をしていきます。
あなたもぜひ、陰陽師の世界を感じてみてください。
陰陽師とは?
まず、そもそも陰陽師とはどういった存在なのかについてご説明をしていきましょう。
陰陽師とは、平安時代、日本の中務省の陰陽寮に属した官職の1つです。
簡単に言うと、現代の官僚です。
つまり陰陽師は、国に雇われた公務員だったわけですね。
映画や漫画での陰陽師のイメージだと、呪術を使ったり、妖怪や悪霊を封じ込めたりといった、超人集団を思い浮かべてしまうかもしれません。
それこそ、神社で生まれ育った本物の霊能力者でないとなれないような、そんな職業だと思ってはいませんでしたか?
確かに陰陽師の仕事には占いも入っていますが、彼らが行っていた占いは、霊視よりも統計学としての意味合いが強かったという事実があります。
そのため、霊能力よりは、頭の良い人材が重宝されていたようで、事実、陰陽寮には博士や学生なども在籍し、教育機関としての役割も兼ねていたそうです。
つまり本当の陰陽師の姿とは、現代の官僚のような、お堅い職業だったわけですね。
陰陽師はどんな仕事をしていたの?
では、そんな官僚のような職業である陰陽師が実際に何をしていたのかというと、以下のような業務を行っていました。
- 占い
- 天文学の研究
- 暦の作成、管理
- 時間の管理、測定
陰陽師の仕事として1番有名なのは占いですね。
彼らは陰陽道による占いで、国の行く末を占ったり、風水によって縁起の良い立地を割り出したり、ときには結界を張ったりしていました。
そしてそれに併せ、天文学の研究も行っていました。
そしてこの天文学の知識は、占星術として、占いにも活かされています。
これら占いの結果を受け、国は政策を行っていたのです。
さらに天文学は、暦の作成、管理についても活かされていました。
暦を作るには、星の配置と動きを理解しなくてはいけないのです。
陰陽師はさらに、占いで吉日を割り出して、祭りの日程を取り決めるという業務も行っていました。
そしてもう1つ、重要な業務が、時間の管理、測定です。
当たり前なことですが、当時、時計なんていうものは存在していませんでした。
そこで陰陽師は、「漏刻(ろうこく)」という道具を使い、時間を測定していたのです。
漏刻とは、いわゆる水時計のことで、連なった箱に一定の速度で水を流し、その水のたまり具合で時間を測っていました。
陰陽師は、この漏刻を管理し、時間を皆に知らせていたのです。
陰陽師の基となった陰陽道とは
陰陽道とは、陰陽師が使用する天文学、暦学です。
諸説あるのですが、陰陽道は「五行思想」と「陰陽思想」が掛け合わさってできたと考えられています。
「五行思想」とは、地球上のすべてのものは、「火、水、木、土、金」の5つから構成されているという考え方です。
一方、「陰陽思想」では、この世のものはすべて陰と陽の2つに分けることができるという考え方をします。
この2つが掛け合わさった「陰陽五行思想」自体は中国から日本に渡ってきたものですが、そこに日本独自の思想が掛け合わされることで、「陰陽道」は誕生したのです。
ちなみに、陰陽師がよく五芒星を使っていますが、あれは「五行思想」の「火、水、木、土、金」を表したものです。
陰陽師が使役していた式神や呪文
ここからは、実際に陰陽師が使役していた式神や呪文について説明していきます。
まずはなんといっても、陰陽師と言えば式神の存在ですよね。
映画や漫画では、人型の紙を鳥や鬼に変身させて悪霊を討つ、という格好の良い使い方がされています。
もしくは、小坊主に変身させ、お茶を運ばせるといった使い方もいいですね。
しかし、実際のところ陰陽師はお堅い国家公務員でしたので、もちろんそんな夢のようなことはできませんでした。
では、式神をどのように使役していたのかというと、一種の魔除けとして使用していたという説が有力です。
実際、式神は陰陽師以外には目に見えないとされてきました。
そのため、目に見えない驚異から身を守るための存在、と考えるのがもっともしっくりくるのです。
ちなみに、この式神を悪用した儀式が、藁人形にくぎを打つという有名な呪い、「丑の刻参り」です
そして、陰陽師で式神の次に個性的なものが呪文です。
陰陽師は、主に以下のような呪文を使っていたと言われています。
- 急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
- 九字(くじ)
そのほか、陰陽師が口にしていた呪文や、その言葉の意味や宿る力については、別記事にまとめがありますので、そちらを参照してみてください。
陰陽師が使っていた占い方法
ここからは、陰陽師が実際に取り行っていた占いについてお話をしていきます。
陰陽師は主に、以下のような5つの占術を実践していました。
- 易占(えきせん)
- 天文占(てんもんせん)
- 式占(ちょくせん/しきせん)
- 暦占(れきせん)
- 相地(そうち)
陰陽師にとって、占いはとても大事な業務だったため、このように多くの占術を取り入れていたんですね。
ちなみに、陰陽師が使うこれらの占術は、すべて中国由来のものに日本の神道、密教、修験道を掛け合わせて作られたものです。
それでは、1つずつ見ていきましょう。
陰陽師が使っていた占術1.
「易占(えきせん)」
易占とは、筮竹(ぜいちく)という細い竹や、算木(さんぎ)という細い木を使って行う占術です。
筮竹、もしくは算木は、6本1組で使われ、その組み合わせによって占いを行います。
易占は何でも占える万能的な占いだったため、平安時代の貴族や文化人も愛用していたといいます。
ただし、何度も同じことを占ってはいけないというルールがありますので、その点だけは注意が必要でした。
陰陽師が使っていた占術2.
「天文占(てんもんせん)」
天文占は、陰陽寮の中でも主に天文学博士が使用していた、いわゆる占星術です。
星を見て、ことの吉凶を占う手法ですね。
ちなみに、かの有名な安倍晴明は、天文学の分野において非常に優れた人物であったため、この天文占を得意にしていたそうです。
陰陽師が使っていた占術3.
「式占(ちょくせん/しきせん)」
式占は、結果を計算する手段として、式盤(しきばん)という道具を用いて行う占術です。
式盤(しきばん)は円形の天盤と正方形の地盤を組み合わせてできており、宇宙の成り立ちを縮小して表したものであると考えられています。
陰陽師たちは、この式盤を使って占い結果を算出し、国の吉凶や天変地異を占っていたのです。
ちなみに式占には、「太乙式(たいいつしき)」、「遁甲式(とんこうしき)」、「六壬式(りくじんしき)」という3つの種類(3式)があったのですが、陰陽師が主に使っていたのは「六壬式」であったといいます。
陰陽師が使っていた占術4.
「暦占(れきせん)」
暦占は、「具中暦(ぐちゅうれき)」というものを使用して行う、日にち単位の占いです。
簡単にいうと、現代のカレンダーに書かれてある「大安吉日」や「仏滅」に近いものですね。
この占いは、陰陽師の中でも暦の作成、管理を行う者たちによって執り行われました。
そして、行事や祭りの日取りを算出していたと言われています。
陰陽師が使っていた占術5.
「相地(そうち)」
相地とは、簡単に言えば風水術のことです。
ただし、現代風の「黄色の小物を置く」といったような細かいものではなく、相地は土地全体を見て執り行っていました。
たとえば、縁起の良い建物の立地を割り出したり、都の配置を考えて結界を張ったり、といったことですね。
昔の日本は、この相地によって土地の良し悪しを測ってきたのです。
有名な2人の陰陽師と逸話
陰陽師と聞いて、真っ先に名前が挙がってくるのが、下記の2人です。
- 安倍晴明(あべのせいめい)
- 蘆屋道満(あしやどうまん)
ここからは、この2大陰陽師の真実についてお話ししていきましょう。
有名な陰陽師1.
「安倍晴明(あべのせいめい)」
陰陽師といえばこの人、というくらいの知名度を誇っているのが、この安倍晴明です。
しかし実は、安倍晴明は当時のお役所であった陰陽寮において、実はそこまで位が高くありませんでした。
それこそ、陰陽寮の中で1番位が高かった陰陽頭(おんみょうのかみ)には、1度もなっていないというのです。
そもそも、安倍晴明が陰陽師として活躍しだしたのは50歳前後になってからで、それまでは陰陽道を学ぶ学生だったという話もあります。
それが事実であれば、実は安倍晴明はかなり遅咲きの人物で、天才でもなんでもなかったということになりますね。
さらに言うと、安倍晴明に関する資料は陰陽師になってからのものしか残っていないため、若いころにどのようにして過ごしていたのかは定かになっていません。
もし仮に、安倍晴明が他の追随を許さないほどの天才陰陽師であったのなら、若いときからバンバン活躍して、記録に残されていてもおかしくはないという気もします。
では、そんな普通の陰陽師だった安倍晴明がどうして有名になったのかというと、今昔物語という昔の物語集に登場したから、というのが有力な説です。
今昔物語の中の安倍晴明は、それこそ鬼を察知したり、式神を追い払ったりといった、まさに物語の中の陰陽師としての活躍をしていました。
おそらく、そのイメージによって、安倍晴明の名前は有名になり、陰陽師の代名詞になったのでしょう。
ただ、実際の安倍晴明も、実は無能であったわけではありません。
天文学の分野では非常に優れていたという記録があるのです。
そう考えると、今昔物語の登場人物として抜擢されたのも、その優秀さがあったからこそなのかもしれませんね。
有名な陰陽師2.
「蘆屋道満(あしやどうまん)」
蘆屋道満(道摩法師)は、よく安倍晴明のライバルとして語られる陰陽師で、呪術師でもあります。
「正義の晴明」、「悪の道満」という扱いが非常に多く、ほとんどの物語で敵役として登場する人物ですね。
安倍晴明と芦屋道満は、兵庫県佐用町で最後の決闘を繰り広げたとされています。
ちなみに当時、芦屋道満は安倍晴明より37歳も若かったそうです。
かなりの年の差があったことから、安倍晴明と芦屋道満のライバル関係については、あくまでも物語上のものであり、架空の話だったのではないかという意見もあります。
(ちなみに安倍晴明は芦屋道満との対決のさい、15個のみかんをすべてネズミに変えてしまったという逸話があるので、完全なノーフィクションというのはほぼあり得ないかと思います。)
また、蘆屋道満の特徴として、五芒星ではなく六芒星を使うというものがあります。
五芒星の晴明、六芒星の道満という関係だったわけですね。
ちなみに「ドーマンセーマン」という言葉は、「ドーマン(六芒星)」、「セーマン(五芒星)」を表しています。
そしてこの六芒星ですが、実はユダヤ教に由来するシンボルなのです。
そのことから芦屋道満は、もしかすると陰陽道ではなく、ユダヤ教をメインに学んでいたのではないかという説もあります。
つまり、安倍晴明と芦屋道満の対立は、もしかすると陰陽道とユダヤ教という、宗教間の争いだったかもしれないわけですね。
現代における陰陽師はどうなっている?
現代にも、陰陽師として活動している方はいます。
しかしご存知のとおり、今の日本には、陰陽寮はなく、陰陽師という官僚も存在していません。
そのため、陰陽師は、あくまでも個人で活動しているのが現状です。
ただ、陰陽師が残してきたものは、現代でも未だに多く使われています。
カレンダーもそうですし、時計だって、元々は陰陽師が時間を測っていたわけです。
さらに、占いに関しては、陰陽師の時代のものが未だに活かされているといいます。
そういう意味でいえば、日本という国には、未だに陰陽師という存在が強く根付いているのです。
その証拠に、実は東京には、多くの五芒星が存在しています。
たとえば「東京五社」と呼ばれる5つの神社があり、その位置を線で結ぶと、五芒星が浮かび上がります。
さらに、スタバとイオンの位置を線で結んでも五芒星の形が浮かび上がるというのですから驚きです。
ちなみにその辺りの詳しい話は、下記の記事で詳しく説明していますので、併せて確認してみてください。
現在の日本にも、平安時代を生き抜いた陰陽師たちの痕跡が、しっかりと刻み込まれているんですね。
【まとめ】陰陽師の真実とは
今回は陰陽師についてお話しをしてきました。
陰陽師というと、式神を使って悪霊と戦ったり、鬼を討伐したり、というイメージを持っていたかもしれません。
しかし実は彼らは国家公務員で、行っていた業務は下記のようなものです。
- 占い
- 天文学の研究
- 暦の作成、管理
- 時間の管理、測定
このように、陰陽師が行うスピリチュアルな業務で言えば、せいぜい占いを行う程度だったわけですね。
陰陽師とは、実は現代の官僚のようなインテリ軍団だったのです。
とはいえ、当時、平安時代において彼らの業務は、国を運営する上でとても大切なものでした。
その功績は、今も東京を守る五芒星として、残っているほどです。
東京の五芒星について、詳しくは下記の記事で出てきますので、併せて確認してみてください。
陰陽師たちは、実は縁の下で国を支えていた人たちです。
そんな人たちの真実に、ぜひ触れてみてください。
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